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隠れ京都案内 元和キリシタン殉教の地(京都の大殉教)

執筆者: 木ノ下 千栄(きのした ちえ)
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中山正美「都の大殉教」より
テクラ橋本と子どもたち
(バチカン美術館蔵)

◆橋本テクラと5人の子どもたち

信者は、女性を含んでいましたが、老若男女の区別なく十字架に磔にされ悲惨な最後をとげました。

 52名のキリシタンの中には、2歳の幼児など11名の子どもたちも入っていたといいます。中でも、一際目をひいたのが、橋本太兵衛ジョアンの妻・テクラとその子どもたちでした。

 テクラは、5人の子どもと共に焼かれました。テクラは左に3歳の幼い女の子を抱き、右には12歳の男の子がつるされていたといいます。あとの2人の子どもはそれぞれ別につながれていました。

 間もなく十字架の下には薪が積まれ、夕刻になると火が付けられました。炎と煙が上がると幼児たちは泣き始めたので、母親たちは子どもたちを慰め、もうすぐ天国に着けると励ましたそうです。

 燃えさかる炎の中、途中子どもの一人、カタリナの綱が火で焼かれて切れました。ところが、カタリナは逃げることなく、母親のつるされた十字架のもとへ走り寄っていきました。「お母さま、もう目が見えません」という娘の声に母テクラは「イエズスさまとマリアさまにお祈りしましょう」と答え、最後まで3人の子どもたちをしっかりと抱きしめたまま、炎の中で亡くなったのでした。


正面橋から処刑場とされる付近を望む
建てられた殉教の記念石碑
◆「ネロにまさる残虐の所業

この処刑は京における最大のキリシタン弾圧であり、宣教師が「古代ローマ皇帝のネロにまさる残虐の所業」評したといわれています。

 また、司祭も修道者もいない全員が一般の信徒であることや、殉教した者の中に婦人はもちろん、2歳、3歳の幼児が含まれていることなど、殉教史上でも特別な意義を持っているといわれています。

このような無差別、非情な大虐殺がありましたが、平安遷都1200年記念の年であった1994年8月、この地に「元和キリシタン殉教の地」と刻まれた、美しい鞍馬石の石碑が建てられました また、2007年にローマ法王庁は、日本の殉教者188人に「福者」の称号を与え、その中に、京都の殉教者の名も加えられたそうです。

近くの史跡にこんな悲劇の事件があったとは、驚きでした。さらに詳細を知りたい方は、『京のキリシタン史跡を巡る~もう一つの京都 風は都から~』(2007年5月)が詳しいので、ぜひ、ご参考になさってください。


史跡場所:「元和キリシタン殉教の地」(東山区川端通り正面上る西側歩道)





※この画像は「京都市内キリシタン遺跡 案内」様から転用させていただきました。

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