コラムNO3京菓子と「司・匠」栗(画像)

 京菓子の歴史には欠くことのできないのが砂糖です。その砂糖が日本にはじめて唐菓子として渡来したのが、慶長14年(1603年)です。そののち徳川時代(八代将軍吉宗のころ)甘薯の栽培が奨励されたこともあって、輸入国産の砂糖量も多くなり、それまで薬種商が扱っていた砂糖は上菓子組合の扱うところとなりました。そのため、白砂糖は組合員以外は使えなくなり、他は黒砂糖を使用し、これを駄菓子と呼んで、上菓子と区別しました。

 上菓子とは神社仏閣への供饌菓、茶の湯の菓子、そして御所への献上菓を言い、上菓子は当時、注文分だけの菓子しか作らず、御用聞きの際も勝手口からではなく、玄関より堂々と入れる格式をも誇っておりました。いまに残る〈司〉・〈匠〉の文字の付いた京菓子店は、こういう所からきているのです。しかし、最近はその格式を表す〈司〉・〈匠〉も昔のようなけじめはなくなり、歴史の浅い店々が勝手につけるようになり、一見して分からなくなっている現状ですが、上菓子組合制度が天明の大火の混乱で中断し、亨和三年(1803年)復活して以後、当時240件あった菓子店もほとんど姿を消し、現在、本当に百年を越える店はほんの40件ほどになってしまいました。

 歴史ある店々の菓子作りは秘伝とされ「あんたき十年、火床三年」といわれる長い修行のもと、一子相伝で伝えられてきました。為に、代々家業として残された名菓が今も残り、秘伝は公開されることなく、守られてまいりました。

 戦後は全国各地で京菓子に似たものが多く出回ってはおりますが、やはり歴史ある京菓子店の作るお菓子には、味・形・意匠・色とも、長年培われてきた「京の心」を伝えるものがあることを見逃すことは出来ないでしょう。

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